こんにちは。緑友会・新風の鬼木誠です。
通告に従い、教育について二点質問いたします。
まず第一点、情報教育についてです。
現代は、高度情報化社会とも言われます。情報化の流れをより大きく促進したのがIT革命であります。IT革命とはインフォメーション・テクノロジー、つまり情報技術の革命です。情報技術の飛躍的な発展により、世界の経済・文化が革命的に変化を遂げています。日本もその例外ではなく、日々移り変わる技術革新の真っ只中にいます。
みなさん「ユビキタスネットワーク社会」という言葉はご存知でしょうか。ユビキタスとは英語で「どこにでもある」という意味です。携帯端末や家庭用ゲーム機など、あらゆる機器がインターネットに接続され情報のやり取りができる社会を「ユビキタスネットワーク社会」と言います。いつでも、どこでも、どこからでも情報がやり取りできる社会の到来です。あらゆる情報機器がネットワークでつながるデジタル社会が、2010年ごろには本格的に訪れると言われています。
しかし、私たちが溢れんばかりの情報を有効に活用できているかとなるとそれははなはだ疑問です。インターネット上には膨大な情報が溢れています。正しいものもあれば間違っているものもあります。それらの情報を使いこなす力量が備わっていなければ、情報とは有益な薬ではなく、有害な毒ともなりかねません。
私が常々感じているのは、日本人は情報に対して全く無防備であるということです。すべての情報を真実だと鵜呑みにしてしまう傾向があります。
私がかつて銀行に勤務していたときの話です。さまざまな方がお金を借りに窓口にいらっしゃいました。「この商品はアメリカの○○大学の○○教授が開発して、○○選手が利用して金メダルを獲得した。」といった話や、「この商品は、○○新聞や○○というテレビ番組の中で紹介された。」という話、さらには「議員の○○さんも愛用している。」などという話がしょっちゅうやってきました。大きな話になればなるほど根拠に乏しい与太話でした。今思えば、そこで私は情報の真偽を見抜く目を養いました。
銀行を騙して融資を引き出そうとする人達のやり方にはさまざまな共通点がありました。それは日本人の弱点を巧みについた話術です。さきほどの3つの例に見られるように、日本人は本や新聞などの活字、テレビや映画などの映像、芸能人やスポーツ選手といった著名人に弱いのです。活字や映像、著名人の言っていることはすべて真実だと思ってしまうのです。最近でも「よくこんなものにひっかかるなあ」と感じるような詐欺事件がたくさんありますが、それらはこうした日本人の情報に対する弱点を巧みについているのです。
そこで私が訴えたいのが情報教育です。情報教育は、現在ではアメリカでも日本でも取り上げられつつあるようですが、私がここで言いたいのは「パソコンの使い方を教えるのが情報教育ではない」ということです。パソコンは情報を取り出す道具でしかなく、その情報を生かすも殺すも本人の能力次第です。パソコンの動かし方のみを教えて情報教育と満足するのは「仏作って魂入れず」だと言えます。大事なのは、子どもがパソコンを使いこなせるようになるという技術的問題以前に、溢れる情報の中でその真偽を判別し、正しい情報を活用する能力だと私は考えます。情報を取り出すことだけを教えたのでは、子ども達は溢れる情報に踊らされることとなります。
今までの情報発信の主役は、テレビ・新聞といったマスメディアでした。大衆に向かって一方的に発信される情報は、そのすべてが真実であるかのように伝えられてきました。しかし情報というものには必ず発信者の意図や主観があり、多かれ少なかれそれぞれのバイアスがかかっています。それがいいとか悪いとかではなく、情報とはそもそもそんなものなのです。しかし、そのことすら教えられないまま、すべての情報を疑いなく受け入れるという状況が日本では続いています。
日本は国際的な情報合戦の中で、諸外国の後塵を拝しています。情報というものの価値を理解し活用できるかどうかは、国の命運を分けるほどの大問題だと、私は考えます。
すべての情報は疑うべき存在であると認識すること、情報の出所はどこかを確認する習慣を身につけること、情報の真偽を見抜く目を養うこと、情報を分析し自分の頭で考え自分なりの答えを出す能力を鍛えること、などなど、パソコンを扱う以前に教えなければならないことがたくさんあります。
そこでお尋ねします。現在、義務教育、高校教育において、情報というものに対してどういう教育が行われているのでしょうか。また、情報教育というものがどうあるべきかについて、教育長のご見解をおきかせください。
二点目は郷土の歴史や伝統文化を尊重する教育についてです。
私は先日、地域の小さなお祭りに参加しました。小さな神社の例祭に十数人の地域の方々が集まりました。福岡市内には黒田藩ゆかりの史跡や祭りが残っており、この地域でもそうした歴史・文化を守っています。しかしこの取り組みを支えている方々の高齢化とともに、それを継承する地域のコミュニティが崩れかけているというのが現実です。伝統行事・伝統文化の継承が断絶しつつあるという危機感を持ちました。
金印・大宰府・元寇防塁、福岡には本当にたくさんの文化遺産・歴史遺産があります。偉大な先人もたくさんいらっしゃいます。自分が生まれ育った町や地方や国の歴史を知り先人の偉功を学ぶことで、昔の日本人はこんなに偉かったんだなあ、僕らの祖先はこんなに頑張ってきたんだなあ、と、感じることができます。たくさんの先人達の営々たる努力のうえに今日の自分達の繁栄があることに気づき、目上の方々を敬う気持ちが生まれます。またそこで自分の先祖に思いをはせることで、自分のルーツ、そしてアイデンティティを意識するようになります。そして今日までのこの国を築いてきた先人たちへの敬意と日本人としての誇りを自然に身につけることができると考えます。
先月、私は生まれて初めて北海道の旭川に行ってきました。旭川は私の祖父が生まれた地です。国策としての北海道開拓のために、曽祖父の一家が旭川に駐屯していたという話を、両親から聞かされていました。マイナス41度という日本の最低気温の記録を持つ旭川の荒野を私の曾祖父が開拓してきたことを思うとき、その苦労や努力が偲ばれ頭が下がる思いでした。現在の人口は30万、碁盤の目のように整備された町並みに沈む夕日を見て、曾祖父をはじめ北海道開拓にあたった人々のことをたいへん誇らしく感じました。
先週末には、唐人町の劇場で福岡の歴史をテーマとしたお芝居を見てきました。黒田藩が作った西の学問所・甘棠館、その初代館長・亀井南冥と、志賀島の金印をめぐる物語です。ちなみに東の学問所は修猷館、今の県立修猷館高校であり、これもまた劇中に登場致しました。教科書的な難しい話ではなく、楽しく見ながら地元の歴史に興味が持てるといったものでした。ここ唐人町はその昔、まさに西学問所・甘棠館があった地であります。地元劇団である「劇団ショーマンシップ」が、福岡の歴史物語をオリジナルの演劇「唐人歌舞伎」として後世に語り継いでいます。
また福岡の近現代の歴史にスポットをあてている演劇もあります。「ギンギラ太陽‘S」という劇団は、役者が頭に「カブリモノ」と呼ばれる衣装を被り、福岡の近現代の出来事をテーマにコミカルな舞台を演じています。福岡のデパートやスーパーマーケット、老舗お菓子店など、地元企業の盛衰を涙と笑いを交えて演じています。これは偉人の伝記物ではないのですが、だからこそ身近でより具体的に福岡の近現代史が迫ってきます。
このように身近な郷土史を学ぶことは、自らのアイデンティティの形成に役立ち、自尊心を高めることにつながります。逆に、日本の歴史や伝統文化が否定的に語られることは、青少年にもいい影響を与えないのではないかと考えます。私達を育んできた歴史と文化に誇りが持てないということは、ひいては自らのルーツの否定であり、自己否定につながります。「いままでの君は間違いばかりだったけど、今日から全部入れ替えて正しくなろうね。」と言われて自分に誇りが持てる人がどれほどいるでしょうか。同様に「君の両親・祖父母は間違ったことばかりしてきたんだ」と言われて自分に誇りが持てる人もいないでしょう。やはり「両親・祖父母の頑張りがあって今の君があるのだよ」と教えられたほうが、子どもは誇りを持って健全に育つことができると思います。
教育基本法の議論が盛んな昨今ですが、私の思う愛国心とは、外から強制するものでもできるものでもなく、内から沸き起こるものであります。また、そこで言う国とは国家体制のことではなく日本の風土・文化であり、生まれ育った身近な郷土や優しい国民性のことなのだと思います。郷土や歴史、文化を愛し誇りを持つことは、自分自身を愛し誇りを持つことにつながると私は考えます。
この項の冒頭に申し上げたように、現在、地域コミュニティの人間関係が希薄化する中、郷土の歴史・伝統文化を子どもたちに伝える機会が減少しています。しかし幸いなことに、福岡にはまだまだたくさんの歴史遺産が残っています。これらの資源を有効に活用し、青少年に郷土の歴史・文化をしっかり教え伝えていくことが必要だと考えますが、教育長はいかがお考えでしょうか。教育長のご見解と、これまでの取り組み状況をお答えください。
以上二点についてお尋ねいたします。学力向上も目指しながらもこのように様々な教育を要求されることは、教育現場にとってはたいへんな負担であろうとも推察しますが、そのすべてが子ども達のために必要だと確信しておりますので、ぜひともよろしくお願いいたします。以上で終わります。